Jリーグ・川淵幻想について(1)

以下は9月にFacebookのタイムラインで書き連ねたものの1回目です。

何故こんな物を書いたのかというと、丁度Bリーグ開幕直前で、まあ「復興会議」さんに沢山「川淵神格化」とか「地域密着神格」とか書き連ねた人が沢山沢山いて辟易したというのが正直な所で。ただ、それを「復興会議」に書いちゃうと場違いすぎるのと、感情論でへそ曲げる人が多いから、だったのね。

※実際には、この前後に個人的な喧嘩を売られた事で「場の空気を乱した」責任を感じて(喧嘩を売られた事が問題では無い。ただ、そういう空気が他の人に迷惑になってはいけないという意味で)離脱する予定だったんだけど、反応しなくちゃいけないような誤謬などが続いていたのでダラダラ居残ってしまった。一応、ライス前に抜けるつもりですけど(どうせまた関西学生マニアがグタグダ言うのが見えているから、そこまで付き合う義理はないと思っている)ね。

その上で、Jリーグをかじった程度の人があじゃこじゃJのまねをしてXにどうこう言うのが我慢ならなかった鬱積を吐き出してますね。
でも、逆にこういう視点をふまえた上でJを手本にするのどうのというのであれば、それは否定されない事だと思うのですわ。

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Bリーグ開幕に当たり、川淵三郎氏の提灯記事がいくつも出てきているようである。
確かにJ開幕時のチェアマンであり、開幕後の読売新聞の「野球型経営論」と対峙して「地域密着型」を定着させた立役者でもあり、Bリーク立ち上げでは対立する二つの思想を統合するために、異論をかなり強引に切り捨てた、という経緯がある。
そこは認める。

ただ、ある時ネットニュースで見た意見に、膝を打った。それにより、私はこのおっさんにたいして諸手を挙げて賛同したり賞賛したりはしなくなった。
それは
「川淵三郎は、自分で新しい何かを生み出した訳ではない」
というもの。
確かに言われてみればそうで、Jチェアマン時代に何か新しい事を0から立ち上げた事は無いし、日本協会キャプテン時代もたいした事はしていない。
※ようは、そういう批判記事だったんだが、言われてみればなるほどだと。

その前後に日本協会OB、岡野誠一郎や長沼健に関わるインタビューやレポートを幾つか見て、なるほどと思った訳である。

確か川淵三郎は、古河電工から日本協会に出向したのは「プロ化準備室」設立のタイミングだ。が、それ以前に岡野・長沼がしっかりと下地を作りレールを引いていた。また、川淵三郎がチェアマンになる前(準備室の責任者時代を含む)に、路線の意思決定をしてきたのは70年代から協会の強化委員だった面々なのである。
準備期間としての「プロ契約の選手を認める」が決定して適用されるまでの間、調整役として方向性を示していたのは岡野であり、関係方面の説得に動いていたのは長沼なのである。
ということから考えるに、川淵三郎は「選択肢を与えたときに、どれが今の方針に合致した中で経営的に最適か」という選択をする事と、方針を維持する為のメンテナンスに威力を発揮する存在なのである。

それはBリーグ立ち上げでもそうで、基本的にbjとNBLは統合が決まっていて大半のフォーマットは出来上がっていた。ところが「企業名がどうだ」「観客規模がどうだ」という、「試合するに関係ない部分」でまとまらなかっただけなのである。
スポナビの連載企画を読んでみれば判る。川淵三郎は経営的なコンセンサスに基づいて切り分けはしたが、それ以外はNBLよりではあるが既に出ていたたたき台に乗っているのだ。

逆に日本協会理事長時代に彼がした事と言えば、ジーコを首に出来ず、千葉からオシムを強奪し(その結果千葉はJ2に沈んだままだ)、W杯に立候補して中東に敗れた結果次の開催チャンスが20年うしろ倒れする事になり、原博実の暴走を制御できないまま政争をまきおこしただけ、なのである。
(2)へつづく