最近思ったこと(2)体罰

はい、体罰は悪です。但し、それは「分別つく、理性ある者に対して」ならです。
従って、「絶対悪」ではありません。

体罰による指導矯正は、心理学的には「行動心理学」の中の「反射」、つまり生物学的に言う「条件反射」、一般に言う「パブロフの犬」です。

つまりね。「理屈が通じない程度の相手に、恐怖という反射で行動を抑制する」事であって、ぶっちゃけ「度が過ぎない」範囲で体罰は有効な教育手段となりうるのです……但し、使い方を間違えたなら、加害側のストレス発散でしかなくなっちゃう訳ですね。

従って、必要な範囲での体罰は容認されてしかるべきです。何でもかんでも体罰を認めない、というのは、はっきり言って「育児放棄」と同列です。
もうちょっと言うと「体罰」と「暴力」は全く別次元のものであって、その境界をあいまいなままに「教育における暴力」=「体罰」という現状において、「体罰」は絶対悪でしかありません。

正直に言ってしまうならば、体罰の対象は、小学校中学年までですよ。

だからと言って過度の体罰は単なる暴力です。
間違えてはいけないのは、「自分の言うことが出来ないから暴力」というのは体罰では無く、暴力です。
体罰とは、「理を持って説明し、正しく行うことを指導したにもかかわらず、真逆のこと犯した罪に対するペナルティ」です。
加減を知らずにやることではありません。

従って、「俺様帝国」の絶対性を維持する為だけの暴力は、体罰ですらありません。自分の説明指導能力の低さを誤魔化す悪行です。
但し、「誰もが納得する理を持って説明し、正しく行うことを指導した」にも関わらず、犯罪・反社会的行為を行ったならば、それは多少異なるでしょう。
「誰もが納得する理を持って説明し、正しく行うことを指導した」にも関わらず、それをしなかっただけなら、その人の評価が落ちるのは正当ですので、その人はフェイドアウトするのみです。それは親がねじこめないくらいの正当性だから。

でね。今回ハシシタさんがやった事は、体罰と同じ「俺に従え」アピールなので、あれは失格っつうか、独裁者だね。裸の王様。
正しく行うべき「指導者を雇う金を学校予算の中に入れる」事、「指導者の評価基準を明確にし、適正でないものは1校あたりの一定期間以上の継続雇用を認めない」こと、ですよ。いつまで教員に指導させるんだって事の方が大切な話。
体育科の存廃は、それらの仕組みが出来てからの話でしょうに。
なんだかねえ、あの人に政権政党さらせるわけにはいかないよね、という気がますますしてきたわ。

あくまで体罰の話と体育科の話は全く別問題です。それを一緒くたにしてしまのは、如何なもんでしょう?

最近思ったこと(1)嫌煙権

とあるところで、嫌煙権至上主義者が「禁煙しないこと」についてなんか書いておられたので(多分その方、およびその場をご覧になっている方はここをご覧になってないと思いますし、私がそこを見ていることをご存じないと思います)。

正直に申し上げてしまうと、「嫌煙権至上主義者」というより「煙草害悪論絶対主義者」という気がして、そういう人に対して嫌悪感を抱くのでございまして。
※ついでに言うと、発言小町に多数生息する「法律でなってないから、夫の親は自分の親ではない嫁」にも嫌悪があります。あと、「運動不足だから運動しなさい。運動すればストレスも解放される」と通り一遍の事しか言えないアホ産業医にもね。

そもそも「権利」とは何か。
これは難しい議論なんですけど、一派感論としていうと
「所属する社会環境において、その環境維持における義務を果たしたことによって自らの利益を守ることを主張しうる資格、および行動」
だと考えられます……法律論的には。従って、準拠しうるものは「所属する社会環境」の中のことです。
従って、それを国家社会や行政区分において示すと、絶対守らねばならないのは「法律」であり「規則」な訳です。
ちなみに、これは明文化されたもの、とは限らない訳で、そこが問題。
そこを見ないふりして偉そうに語るのがアメリカかぶれ、という事。

アメリカンのような他民族移民国家の場合、その入植地ごとに元々の風習があるから、そこの風習について明文化していおかないと「問題解決」が出来ないので、各地域毎の決めこどを明文化している訳です。これが行政区単位で積み上がって、国益を守るべく「合衆国の法律」があり、下位概念して「州の法律」が存在する訳です。
マイノリティの権利は相当遅れて合衆国法側から降りてきた。いわゆる農奴に関する権利は、南北戦争時の政治的傾向である。先住民の保護は「希少動物扱い」である。まっとう正面から権利を語った事例なんてありはしないのですよ。
なので、いまだにマイノリティ差別が続いてるのは、それが「文化」という不文律でかたどられた「所属する社会環境」が立ち位置だから、なのです。
従って、このような社会学的側面から見た場合、「権利」=「説明不能なまでに社会に浸透した不文律に対して、屁理屈と言われようとも理詰めで説得して変化を起こさせる物」となる訳です。

で、嫌煙権。実は禁煙は日本に葉煙草喫煙文化が入ってきた(確か南蛮貿易が契機だから)室町時代末期から、特段厳しい制限が課せられていた訳ではない(し、取り締まりが出来た訳ではない)。法律上未成年の喫煙が禁止されたのは明治33年だそうだけど、年齢の記載は昭和22年だそうだ。ちなみに戦前の小説を読むと、明らかに高等小学校程度の年齢の未就労者(いわゆる不良少年)が煙草を吸うことをとがめる描写はないんですよね。
このような事から考えて「喫煙」は文化なんですよ。

だから、嫌煙権は文化に対して理屈で楔を打つ行為です。それ自体に何の問題もありません……その適応範囲が「自分とか自分の家族」に関わる範囲であれば、という話です。
つまり「私は、私の家族は、受動喫煙をしたくありません」という権利はあるんです、それは人間らしく生きる権利として、ね。
でもそれを「健康に悪い喫煙は誰彼なく辞めるべきである」とか「子供たちが見てあこがれてしまったら」とか、そういう妙な理屈で社会正義に仕立て上げて正義の行使のように言うのは、私は反対ですね。
(反対するのも権利ですから)

ぶっちゃけ、嫌煙権とは「私が嫌」という権利に過ぎないのですよ。社会正義を名乗る資格なんてないんです。単なるエゴ。煙草吸う人と大差ない、きわめてちっちゃなエゴイズムの一つに過ぎないんです。但し、「健康に生活する権利」と「嫌な物を拒絶する権利」において、要求することは正当な資格に基づいている範囲の、エゴです。
エゴ、と言われてムッとする人もいるでしょうが、ここでは「自己主張」と言い換えてもいいですよ。エゴとエゴのぶつかり合いを調整するのが「約束事」なんであって。そんなものは時代と共に変容するもんです。

ですので、「自分の子供に煙草を吸っている人の姿を見せたくない」という権利はあったとしても「他人の子供が喫煙する姿を見て煙草を吸うきっかけになるかも知れないから、喫煙は廃止すべきだ」という権利は世の中に存在し得ない。なぜならば、その子供が煙草を吸うかすわないかは、その子供の家庭の教育指針です。抑止できない事はその家庭の脇が甘いだけの話、嫌煙権主張者の利益には全く関与しないですよね? 従ってそんな権利は嫌煙権の範囲ではないのです。

煙草というものを廃止させたかったら、政治家になって法律を変えれば良いだけです。いや、だけではない。煙草を廃止するということは、国内にいる葉煙草生産農家に「死ね、のたれ死ね」と言うことですから、彼らが「葉煙草作ることにメリットがない。自分たちの生活を守るために割のいい仕事がある」という方向に舵を切らせる努力もしっかりして転作対策をしっかりして、また昔の専売制度の名残で残っている町のたばこ屋さんも転業促進して、という大局的に追い詰める事が出来て初めて廃止できるんじゃないですか?

よくアメリカのスポーツでは煙草は絶対吸わない、という意見を聞きますけど、逆に大麻やマリファナで検挙されて保釈金ですぐ出てくる奴多いですよね?(ついでに言うと、追放された後の事は報道されてないだけですよね)。飲酒に寛容な文化でありながら、飲酒事故多発してますよね? そういう比較の点で、本当に禁煙行為だけが正義なんですかね。私は疑問です。

とはいえ、個人的に「嫌煙権」を行使する方を否定している訳ではありません。かつて喫煙者だった私としては、彼らに不快な思いをさせた事について、ちっとは反省してますし、彼らが「嫌っ」ていうなら、彼らの権利を守る義務が喫煙者にはあると思いますよ。
そもそも喫煙者の低いモラル(喫煙所で無いところで平気で煙草吸ってポイ捨て、とか。そうやって自分の首絞めてる訳だからね)が嫌ですから。

ただ、「喫煙権は正義!」とか抜かすんだったら、それは「ふざけんな」と言うだけです。

正義なんて相対的なもんなんだから。

※国家的に健康に言及するのは、「納税義務を果たせる人間を多く確保する為」という経済学的な意見があります。ただ粋すぎた結果が「老人介護にそれ以上に金を出す」ということになっている事も事実ですが。あ、いえ「長生きして欲しい」と願う権利は阻害いたしませんよ。ただ、学問統計的な話ですからね、これは。

ちょっと静かにしてますが

生存証明についてはFacebookにて行っていますので、こっちがわりかし静かになりました。

いちおー、電子書籍は途中で方向転換して、現在『銀河英雄伝説』をやってます。
Kindle対応の細かいところで気づかなかった所とか入りましたので、近々そのへん含めてメモを新しくしたいなと。

あと、引きこもっていても仕方ないので、現在再就職支援会社の共有スペースに定時出勤することにしています。

というわけで、無事これ幸い。

駅弁大会に思う妙なこと

ちょっとしばらく、新宿に通うことにしました(一二月に引きこもっていた為に生活状況がグタグダになったまで、まずそこから直そうと思いましてね。)

で、10日から通い始めて、京王百貨店の所で行列出来てて、それで「ああ、駅弁大会か」と気づきました。
その晩の帰りに寄り道初めて、今日の昼間もちょっと顔を出したんですよね。

まず、駅弁って、「長時間列車で移動するとき、昼食や夕食を車内で取るもの」で、「冷たくなったものを熱いお茶で誤魔化して食べるもの」だというものと割り切ってますので、正直「海鮮丼風」みたいなのって、そもそも駅弁じゃない訳で。
冬場のガンガンのヒーター効いた車内で1時間は放置されても傷まないのが原則だから、生もの入れるのへんだし。

さらには(買ったんですけど)「横手やきそば弁当」に至っては電子レンジ推奨! それって車販カフェテリア用だろうが、駅弁じゃないやい……。まだ「ひも引っ張って暖かくする奴」の方がましだ。
さらに「ワンピース駅弁」とか、目も当てられないよ。

まあ、そこはいい。
ただ嫌なのは「駅弁大会を販促にしたいがために、特別なもの・新作をそこに持ち込んで媚びを売る」のは、なんかもう、筋違いというか。ってか、それって本末転倒!?

もっと嫌なのは、行列して買っている人の、一体何人が「じゃあ、そっちに旅行に行こう。行った時列車で行こう。列車に乗ったときはこの駅弁を買おう」と思っているか、だよね。
稚内とか根室とか、絶対列車で行きそうにないじゃん、こういう人たち。
そーゆー所に、今は違和感を感じます。
それこそまだ、町の商店がこぞって取り組む「B級グルメ」の方が健全な気がします。

とはいえ、単に「うまい弁当実演販売」と割り切ってしまえば、しばらくは夕食の食卓は華やかですな(汗)

新年のご挨拶のそのほか

ははは、姉家族が来るまでどころか、翌日のお買い物運転手まで仰せつかってしまいまして、実家から身動きが全くとれませんです。

一応、ライス観戦記は5日夜に持ち越し(というのも、どーしても確認したいカバーとかがあるので)としますがご容赦のほど。

今年の目標は、ええ、もうそりゃ「再就職」それ一本です。

というわけで、今年もいろいろご迷惑をおかけいたしますが、どうかよろしくお願いします。

気がつけば16周年ですが

一番最初が「一太郎のおまけで入っていたホームページ・ビルダーで何となく作ってみて、ただスペースもらっていたからアップしてみました」だったんだよねえ(2010年12月に、14周年で記事があります)。
途中、掲示板荒らされるは、JustNetが身売りする時にドメインサービスの対応メッチャクチャ遅かったわ、光回線に変えた時に(今のプロバイダですが)固定IP貰ったもんだから、つい自宅サーバ作ってみたは、DBすっとばすは……
リストラされるは。

考えてみりゃ、旧『ラウンジ忘れな草』の2~3年目ってのが一番華だったよねえ。
あの頃に比べたら、今のやる気のなさたるや(苦笑 観戦記の当日アップなんて夢のまた夢になりつつある現状)。

まあ、ここはそんなにメジャーなところじゃなくていいんです。
前にもどこかで書いたけど、「自チームLoveな人たちが集まっているところがワンサと盛り上がっているところで、「ふ、ふんっだ、何だその自チーム贔屓って。こーゆー劇辛意見もあるっつう、そーゆーのも見とけおめえら」的な、意固地なじーさん的なサイトがあったっていいやん」というのが基本なんで、メインストリームに出る必要は無いのです。

あと、15年は続けたいなあ。と、最近は思っております。以前は50歳で潮時かな、と思ったんですけど、どーせ気ままな独身貴族だしね。

ちなみに、リストラを連呼してますけど、そこに関わる経緯は、次職が決まって、そっちで定年(あるいは自らの意思でさそこから巣立つ時)を迎えるまで、公の場では語ることはいたしません。
それは、記録に残ると言うこともあるけれど、やはりそういうことを赤裸々にぶつけちゃう人を次職の人が見たらどう思うだろうか、という事を考えたのと、一応解雇じゃ無くて希望退職として割り増し手当を暮れた前職に対する義理立てもあのますからね。

生存証明としての情報発信

実は、先週アタマに、幼なじみの弟が、突然死したそうです。
幼なじみ(小学校と中学校が一緒:ちなみに男性だからね。最近の萌えアニメとか萌えライトノベルの影響で、幼なじみ=異性とかいう図式が出来てる気配があるので、そこは注意せにゃいかんがな!)はもともと鍼灸系の大学に進み、しばらく関西にいたけれど、卒業してしばらくして東京に戻ってきて、その直後くらいに父親を亡くし、長男である彼が母親の面倒を見るために母親と共に実家のある南九州に戻ったんだな。
で、その家は弟が一人で守っていた(結婚しなかったそうだ。結局、三人きょうだいで結婚したのは長男だけ、それも晩婚)のだけれど、非常にまじめな人なのに連絡も無く出勤してこないのは不自然だ、ということで職場の人が警察立ち会いのもとで家に入ると、布団の中で息を引き取っていたそうです。

でね。
今、リストラされてフリー、じゃないですか。
親が心配して毎日スカイプしてくれてますけど(逆に親に何かあったらスカイプが数日途切れる訳で、実家の異常事態はそこで判る)、それじゃあ他の形は、どうよ、と思ってしまうのです。
ここだって毎日書いている訳じゃないし。
かといってツイッターみたいのは「そのときの衝動とか勢いで暴走してしまう」可能性もあるので自己嫌悪のループに入るのは絶対嫌だからやりたくないし。

そうなると、どうやって生存証明したらいいか、ということになるのですわ。

そこで、思いついたのがFaceBook。Nifty-Serve同窓会用に入っていたので、これで何か情報発信するか、と思った訳です。

で、日々更新出来るもの限定として「非破壊自炊進捗」を書き込むことにしました。
あくまでそれ以外のコメントはしないし、グループに入ってもそういうつもりのものなので、発言はしないと思いますし、フレンド登録も最低限しかしませんので、そういう「生存情報としての情報発信」を試みようと思います。

選挙

まー、想像以上でしたわ。

60年間続いたズブズブの官僚利権体制に4年間で出来ることなんてごくわずかだと言うことが判ってない国民が、コイズミ人気の受け皿として勝手に流れ込んできた民主党に見切りをつけて戻った先が自民党ですか。

そして、自民では目立てないと飛び出した人たちが民主でもまずいと思って飛び出したら、そこは見事に狙い撃ちされて落ちたと。

で、政治家と官僚と御用会社だけが濡れ手に粟がいい、という選択ですか。それが国民の意思と。

だいたい橋本龍太郎より後に、まともな政治した奴おるか、自民党で。みんな自分の利権からみじゃん。派閥の中でもまとめられないし、派閥を超えることすら出来ず、それもあくまで数の理論の為の利権エサにしただけで。
コイズミがなにしたよ。郵政民営化以外、ろくに何もしなかった。それって評価も出来ないじゃん。

野党に転落してからは、政策論争では無く足の引っ張り合いに終始したよね。その為の政治混迷なのに、民主党にだけ責任があるように言う。
そういうのってどうよ。

つまり「政治や施策に興味が無い」人がわんさといるということな訳で、こういう国では二大政党制は駄目ですな。この後民主(多分政権担当政党に戻ること無く消滅するとは思うが)と第三極が、いかに自民を切り崩していくかにかかってますよ。ここから8年間の仕込み(コイズミ直後の自民ボロボロにするところ)が、本当に大切なわけで、地方議会とかからしっかり足場つくって、利権体質を赤裸々にさらすことから始めていかないと、自民の牙城は崩せませんわ。

維新は、国政への準備不足で似たような連中がボロボロ出て足の引っ張り合いを見せた上に烏合の衆としての民主党を見ていた人たちに、思い切り嫌われたという所でしょう。

はっきり言うと、維新は4年早すぎた。4年間のうちに、草の根維新グループを構成し、地方議会を席巻しつつ、徹底して勉強会で意識を統一してコアとなる人を各地に配置して行けば良かったのですよ。
そうしなくて浮かれ上がって国政に出たのが失敗の元(今後のダメージは計り知れない)。しかもよりによって石原とくっついちゃったら駄目でしょう。完全に底の浅さ見せちゃった。

対して未来は、完全に第三極ブームに乗った失敗政党。準備もなんもなく勢いだけで大失敗。
小沢一郎とつるんで大損ということよりも、そもそもこの政党に存在価値ないから。

かくして政治不信は続くのですよ。

あははは……

いやいや、11/3の観戦記書くの忘れてます。

そもそも当日は機器の充電全部忘れていて(滝汗)。
そこからテンション下がりまくりだった、というよりも、あの試合どうしていいかもう……ねぇ。

で、現実逃避するように

「絶版本の非破壊自炊ってどうやるんだろ」

とか調べ始めちゃいまして。

※非破壊自炊:通常自分の手持ちの書籍を電子書籍にするためには、スキャナで読み込んだ物をPDF化する。この際両面印字を連続読み込み出来るようにする為に、本の背を切り落としてバラバラにしてからドキュメントスキャナあるいはオートシートフィーダ付きスキャナで読み込む(背を切り落とすことで、見開きページの歪みをなくすことが出来る。また、バラす事で自動連続読み込みが出来る)。しかし稀覯本や絶版書籍の場合それでき書籍を傷める事になる為、背を切らず、また無理矢理開くなどで本を傷める事なくPDF化を図る事を「非破壊自炊」と言う。代表的な物に「ページを開いてしばらく待って、という動画を使う」とか「デジカメで撮影する」とかある。

デジカメで撮影するには、どう考えてもレリーズとかリモコンがないとブレる(真上から撮影する場合)けど、リモコン付きなんて少ないし(こと、こういうことに使うには高価すぎる機種についてるので。出来れば1万以下にしたい)、三脚も小型の必要だし。
今持っているのが今や無きKONIKAMINOLTA製(註:メーカーとしてのコニカミノルタは存在しますが、デジカメ事業はSONYに売却しました)DiMAGE A-200なので、小さい三脚では重量支えられないしオプション類も入手不可だし。
いっそ高画素数のWebカメラのスクリーンショット機能でも使うかとか。

なお、この結果をOCRかけて一太郎12に貼り付ければ、EPUB3形式にはき出せるんですよね。
ただそれだとキンドルには使えないんですけど(笑)キンドル自体は現物サンプル見てないので判りませんが、Kobo Touchと同じだとしたら、画像のPDF化よりは余白トリミングの手間も少ないしデータ量も少ない(当然ですが、カラーデータの場合は背景が単色では無いので容量が上がります。それは白黒二値に指定して変換したときにも影響が出ます。ならば、一太郎のプレーン状態にして最修飾-ふりがな指定や改行そろえ等-して形式変換した方が容量が軽くなるはずなのです)ので、それもありかな、とか。
→持っている横溝正史の作品が、角川書店のキンドルストアの金額見て「高いっ」と思ったからなおのこと。500円以下で納めて欲しいなあ。

などなど、リストラ直前なのに脳みそに華咲いてしまいまして。

何事も無ければ11/5か11/6の日付で更新いたします。

ちなみに、本当に電子化したいのは日影丈吉『内部の真実』現代教養文庫版なんですよね。

すみません、体調崩してました

火曜日の午後から体調崩してました。今もまだ多少喉が腫れてますがね。
お陰で昨日の午後からずっと寝込んでました。
熱は無いと思うんですがねえ。

そんなこんなで、午前中まで死に体だったのですが、すこしましになって「環境を変えよう」と思って、図書館行って調子よく観戦記書いていて、さあシメの数行、というところで間違って「PageDown」キーに触れてしまいました。
※LenovoのThikPad X61では、PageDownが矢印キーの所にあります、で、右側の一部のキーのキーピッチが変形なので、時々間違って触れてしまうのです。

ああ、3時間の苦労が……

という訳で、またふて寝してから書きますね。