ライスボウルに関する様々な意見に関して(4)

あくまでライスボウルは「国を代表する統括団体の主催するその国最高位を決定する試合」であるべきで、ここへの道を閉ざしてしまう事はすなわち自動的に「(冠なしの)日本一」は名乗れないことになる。
すなわち「社会人日本一」と「学生日本一」が並列したとき、国外に「ナショナルチャンピオンはどのチームだい?」と言われた時に誰も答えられない事になる。ちなみにアメリカやカナダの場合統括団体がある訳ではなかったので、現状カレッジチャンプがナショナルチャンプである。
こと欧州を相手にする場合、アメリカを起源としたカレッジスポーツの思想は馴染まない(欧州では大学は本当に専門機関なので、スポーツに関してのカテゴリには存在していないと取るべき)ので、この「ナショナルチャンプ」を決める試合を自ら手放した結果、大学チャンプは未来永劫「ナショナルチャンプ」にはなってはならない、という事になる。
だいたいユニバーシアードが注目されるのは北米大陸と東アジアであって、他の所では高卒クラブが圧倒的に多い。逆に言うと大学というカテゴリは国際大会にもそれほどありがたがられるカテゴリではない(年齢的にも欧州修学年齢のカテゴリーであるU16、U19がメイン。サッカーだけがU22で分けているけどそれは五輪がらみだ)。

その中で、もう一度ライスボウルの意義を見直したときに、ただ単にどう見ても「指揮官の戦略上の失策に基づいた敗北」であることから目を背けて「役目が終わった」ことにして良いのだろうか?

なんとなく恣意的な、かつ懐古主義的な意見で、あまり好きには慣れないと言うよりはっきり言って嫌いだ。個人的にこの試合で役割を終えたのは鳥内監督を頂点にした体制の方で(方法論は確立したが、そこから発展するための次のプロセスに進めていない、という意味)はないだろうか。

そういう「学生が常に勝てる条件(あくまで80年代のように「社会人が勝つのがラッキー」という状態)」をライスボウルに求めているのなら、確かに「ライスボウルは一定の役割を終えた」事になるが、それはあまりに酷い理論である。っていうよりそんな指導者の元でアメリカに勝つ選手が生まれるとは到底思えない。そこが着地点でないなら、海外交流なんてしてはいけない。

もう一度言うが、ライスボウルは「国を代表する統括団体の主催するその国最高位を決定する試合」であるべき。それが維持出来ないほどに学生側と社会人側が乖離しているようには思えない。

その上で敢えて言うが、そんなに社会人と試合したくなくて、自分たちが満足がいく試合をしたいというなら、以下の方法を提案したい。
底意地が悪く、かつ実現不可能な事ではあるが、それくらいの事はしてもらわないと、その本気度は絶対に伝わらないし、でなければ単なる負け犬の遠吠えに過ぎない。

(長くなるので畳みますが、それ以外の意味は全くありません。ま、相当出来もしない事吹いてますが、「何言ってるんだバーカ」程度で流して欲しいですわ)

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